碧の湖の岸に建っている白い塔の中に、金髪の王女が百年の眠りを眠っている。少年の日にその姿を現実の形に見ることの出来た人が、案外科学上の新分野を開拓して、新しい日本の存在意義を世界に示すようなことになるかもしれない。


人間の眼に盲点があることは、誰でも知っている。しかし人類にも盲点があることは、余り人は知らないようである。卵が立たないと思うくらいの盲点は、大したことではない。しかしこれと同じようなことが、いろいろな方面にありそうである。そして人間の歴史が、そういう瑣細な盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである。


前人未踏の最初の着想というものは、決して安易な思い付で得られるものではない。それはどこまでもじっと喰い入っていく人間の精神力が、凝りに凝ったものなのである。


前人未踏の新しい着想、しかも現実にわれわれの眼前にあるすべての物質の、最も深いところに秘められている法則である。それは最高の詩人だけに時折その片鱗を見せるあの天の啓示のように、時々ひらりとかすかな光を見せる。しかしそれを捕えようとすれば、既にあとかたもない。未生以前の記憶をよび起そうと努力するような、やるせない苦しみである。


「そんなことがあるはずがない」と言い切る人があれば、流言蜚語は決して蔓延しない。しかしこの「はずがない」と立派に言い切るには、自分の考えというものを持つ必要がある。そしてそのことは実はかなり困難なことなのである。特にこの数年来のように、もはや議論の時期ではない唯実行あるのみというような風潮の中では、その精神は培われない。


魚の体色が、水質でこれほどちがうものとは知らなかった。人間の皮膚の色も、こんなに変えられたら、人種問題の解決に、大いに役立つかもしれない。


野菜たとえばなっぱなど、ぜんぜん味付をしないで、そのまま天火でむしたものに、塩だけをふりかけて食べるのは、初めはひどく味気なく感ずる。しかし、一二カ月もこういう料理を毎日食べていると、しだいに英国料理の良さがわかってくる。野菜のもっている天然の美味は、こういう料理をした時に、初めてその本来の味を具現してくれるので、いかに粋を凝らしても、人工の調味でだせる味ではない。


漬物にしても、塩魚にしても、材料の新鮮さはもちろんのことであるが、塩の良否もそれに劣らぬ大切な役割をする。良い塩を使ったそれらの食物は、大地の美味を具現してくれるが、その味は微妙なところにあるので、食物を恵みとして受けとる心がなければ、感受することができない。


今日の私たちは、皆地質学の初歩の知識をもっている。そして山から魚の化石の出ることをそう不思議とは思わない。しかし海底が隆起して山の頂きになることは恐ろしいことである。


分り切ってると思う方は、科学普及書の改善によってあるいは是正出来るかもしれない。しかしそれに本当に驚くような心を育てるには、それだけではむつかしいであろう。ひょっとすると『西遊記』教育のようなものが、案外有効なのかもしれないが、ちょっと危険な方法なので、誰にでもすすめるというわけには行かない。しかし麦は一度踏まねば発育が悪いということは、一応知っておいてよいことである。